昭和五十六年一月二十日 朝の御理解


御理解 第九十一節
 本を執って道を開く者はあられぬ行もするけれども後々の者はそう云う行をせぬでし容易うおかげを受けさせる。


 この御教えはいろいろに頂ける御教えです。教祖の神様がそれぞれあられもない行をまあ又と世にあるまいという天地のシンに通はれる貫かれる程しの行をなさった。ですから後々の者は容易うおかげが受けられまというのは、ただ腕をこまねいて楽な姿勢でおかげをうけるという事ではない。というて勿論あられもない行という事はせぬでも、やっぱ受け止めれる力というものは頂かなければいけない。為にはやっぱり修行である。
 だから合楽理念はその修行を楽しく有難く頂けれる手立てを説くように思います。こりあどうしてもまあここで教祖の神様御一人いちにんというだけでなくそんなら教祖の信心を受け給れて、出社を持たれいうならお教会を持たれた先生方もやはり教会を開かれる為にはそれなりの御修行を下さってある。まあ本当にあられぬ行をもなさっておられる。そのあられもないその行でありましてもこの行の分類というか、和行心行、家業の行とまあ行を三つに分けるとするならばその和行の方を合楽理念は全廃そして家業の行、心行にしぼって教祖金光大神の御教えにそひ奉ろうとしておるのが私は合楽理念だと思うんです。ですから合楽理念はまあそれこそ合楽のキャッチフレーズじあないですけれどもねとにかく有難いです。合楽理念はもう明瞭に説かれてある。
 だからそれを例えば行じようと思うたら誰でも行ずる事が出ける。そしておかげが確かだとこういうふうに申します。又事実その通りです。ですから問題はその合楽でいうその家業の行、心行というものを私共が本気で行として神様が受けて下さるような行にしていかなければ出来んのです。まあそれぞれに家業を持たないものはありませんから、家業そのものが行であるとする家業の頂き方。又は心行と申しますから心でする事ですから、いうなら別に重い物を持って歩くといったような又は和行で云うまあ火の行水の行的に行やらも全廃致しませんからただ心でなす行その手立てをいろいろ説くわけです。そういう行もせんでもよいというのではない。問題は容易うおかげを頂かせるというのは合楽理念が生まれて始めて金光教の信心が容易う楽しう、しかも愉快にまでになれれるような説き方をしたんだ、出来たんだというふうにおもいます。
 だから結局合楽理念に基づく修行というのは楽しいのです。有難いのです。しかしそれが愉快にすらなれれるような修行なんです。昨日福岡の伊藤さんが参拝してみえました。それでもう、本当にいつもの事ですけれども恐れ入ってしまいますというお届けばっかりですが、今度も合楽でこうして寒修行が始まった。
 だからせめてお参りは出来なくてもまあ寒修行の五時の御祈念に併せて御祈念位はさせて頂かなければまあ自分の心を寒修行に向けなければと思われたんですけれども、伊藤さんのあれ程しの信心をされるんですけれども朝起きの行というのが一番にが手だというのです。朝起きが出来ない。それでまあいろいろに工夫をしてこの寒修行の始まった日から朝の五時前に起きて五時からの御祈念をいうなら合楽の御祈念に併せてまあさせて頂いておりますところいうのです。その寒修行の始まった日に御主人の勤先から電話がかかってきた。今晩は夕食の準備をしなくてもいいよと、夕食に招待をされていくからもし用があったらあの「力」という料亭があるからねという電話であった。もうそれを聞いた途端にです、あの修行によらなければ力は受けられんと思ったといわれるのです。
 力によってままになる料亭、そして帰ってみえてからその一番先に料亭のマッチを応接台の前にポンと置かれた時に又思うたと、やはり料亭力とこう書いてある。そしてこれにいうならば、信心の修行に火を点けるもの。これは私が今朝から思いついておる、寒修行に合楽の寒修行にならわせて頂こうとしておるその火を点けたもの、この火を点けるという信心の熱情というものはこれはいかに容易うおかげを受けさせると教祖が教えられておっても熱情なしには生きた働きを生きた心で受け止めるという生きた心を作る為にやはり修行が要るんだという事、その修行です。
 まあいうならばあられもないという修行じあなくて家業の行、心行。その家業の行、ああもう家業の行、心でする修行じあから容易い家業そのものが行じあから容易い、本当に神様が家業の行を行として受けて下さるような内容が出来なけあならんし心行とても同じ事。生き生きとしてその心行を心行として受け止めれる心の状態をもって神様へ向かうという事は火を点けなければ出来ない。為に力を受ける為には修行がいる。その修行に火を点けるものそれが本気でなら合楽の寒修行に併せて頂くうとまあ一心発起するその心なんです。もう神様の働きには恐れ入ります。私の心の動きのまにまにそういう働きがおこるというてまあお礼、感動一ぱいでお礼を云っておられました。
 ねえ、だからそこにどうでもやはり本気で頂こう、本気で受けものを作ろう、本気で合楽理念を勉強しよう。本気で合楽理念を実験実証させて頂こうという本気にならなければ、だからおかげは受けられん。容易うおかげが受けられるそこから本気でいうなら修行に取り組ませて頂いたらもの今までこれまで難しかった朝起きがもうね、これがそのまま力になっているんだと思うたら楽しくなっていうならば元気百倍というような心の状態で修行に取り組ませて頂いておるというのです。結局容易うおかげを神様が下さる、それを容易うおかげを頂く為には力がいるという事が分かります。いよいよ本気で成り行きを尊ぶ大切にさせてもらうという事。もういわば昨日研修の時でしたけれどもう本当に昨日の御理解を皆さんがそりあ見事にもうどれを取りようがないように、しかもその角度をそれぞれに違えた表現でまとめておりました。もう本当に感心してしまいました。
 あなた達もこういうようなふうに求めていく事が日々楽しゅうしてこたえんじあろうち私はまあ申しました事でしたが、やっぱ毎日本気でまとめようとすると楽しゅうなってくる。ああ又まとめんならんというようなもんではない。そのまとめる事自体が有難い。まあそうしてなかばに申しました事でしたけれども、今日の昨日の御理解ですたいね。今日の御理解は例えば今度寒修行あけに教学研究所の所長である或る先生、何とかという先生がお話し、合楽に来たいという意向をもらされたという事で、そんならお話しして頂こうかという事に話しが決まったのです。
たら、なかなか教学のまあ所長ともされる位ですからいうならば大変頭脳の明晰な方だろうとこう思うんですけれども、今日の御理解をもし私共が今研修しておるこれをテープに入れとってこれを聞いて頂いたら合楽の信心が一変に分からしなさんじあろうかのと云うて話した事でした。昨日そんなすばらしい研修でした。でなかばにこりあ大体合楽理念という事はまあ一口で云うならどんな事かと問われた時にあんた達はどう答えるかと、いうてまあ質問した事でございますけれども一人一人に実に適格にあのそれに答えられましたが、結局合楽理念というのは天地日月の心になる事肝要というここに焦点がおかれておる事。ただそれだけでなら天地日月の心になるだけでいいですかだけじあなくて、そんなら天の心とは地の心とは日月の心とはまあいろいろ深く広くそれをまあ研修研究して深め広めておるのが合楽理念です。
 ですから結局その合楽理念を通しての信心修行というのはもう有難うして嬉しゆうして愉快にまでなれれるという手立てが説いてあるのです。こりあ人間が幸せになる事だけの天地の心であり日月の心なのです。そりあもうとてつもない天地の事ですからまだ沢山ありましょうけれども人間が幸せにつながる事の出来る事の為の天地の心であり地の心でありそれをいうならば神の叡智をもって説かれてあるのが合楽理念です。その合楽理念に基づく修行というのはそれこそ容易う楽しゆう出けるという事。
 だから容易う楽しゆう出ける所まででお互いの信心修行を高めなければならない。信心を高めなければならない。例えば自動車の運転が出来るためには運転免許を取るまではやはり難しい。本気でいうなら運転免許を取ろうという気にならねば出来ない。合楽理念を本気でマスターしよう合楽理念に基づく修行を本気でさせて頂こうという一通りの事を覚えたらそれこそ楽しゆ有難うなってくるというのです。
 そして今云う伊藤さんが頂かれておるようにはあ修行に火を点けるもの、そしてそれはこんなに今まで出けなかったはずの事が楽しく有難く出けるという事が恐れ入ってしまう程に有り難い。それをいうならば今日から寒修行というその日にそういうまあ天地が示して下さったとしか思われないような働きがおこっている。主人もあっちこっちずいぶんまあお食事に呼ばれたりするけれども、「力」という料亭なんかでは初めて聞く料亭であった。そういうふうにいうならば分かっていくという事も楽しいですけれども、なら朝おきは出けんと思っておったものが朝起きがこんなにも有難い楽しい、そして合楽と一緒にこうやって御祈念をしとると思うたらもう本当に有難い感動的ないうなら御祈念が出けるというわけなんです。いやもう私は朝起きだけは出けんからというたらそれでおしまいなんです。そこを本気にその気になる時に神様がそれを喜んで下さるように何かそこに働きを見せて下さる。
 昨日私はお風呂を四時半に下がってすぐお風呂を頂くんです。でお風呂から上がったらすぐ食事ですが、お風呂ん中で昨夜のお惣菜は何じあかなあ、ああいうものが食べたいなあというような事をちょっと心ん中で考えたんです。そしたら神様が御神願に へんに十プラスという字を書いて下さったです。神願に、 へんに十という事は汁という事になるでしょう。汁という字でしょう。そんな事ありが食べたいこれが食べたいというて、ならあれを作ってもらい、これを作ってもろうて見た途端に食べたくなるような事があろうがという事、はああげんとばいっちょ食べたいからあれば作ってくれというて食膳に運ばれたら途端にそれを食べたくなくなったというような事が体の悪い時なんかそうですね、食べたいと思って目の前に見たら食べたくなくなると。
 それよりもね、それこそ自然の中に神様が誂えて下さるその食べ物がまあこれが食べたかったとまあ思うておる以上のものがいつも食膳に出ておるじあないかとそういういやしい事を思うたりせんでもねというたら、ほんにそうだとあれが食べたい、これが飲みたいなんていう事を云わなくても、神様がちゃんと準備しとって下さるのだからもう自然を大切にするという働きはそういうような事にまで及んでくるわけです。あれが食べたいこれが食べたいといったような事でも自然に食膳にや運ばれるもの、それが有難いと合掌して頂けるようにおかげをだんだん頂いていくとです。もう本当に食べたいと思うておった以上の食べたいものが出てくるわけです。昨日はいろいろ出ておりましたけども成る程昨日は汁物で鯛の茶漬けでした。やっぱ汁物でした。それに又それに丁度まあいい何人というですか新わかめの小さいあの新いり子のねであの橙酢で頂くようにしてもう本当にこちらはあれを食べたいと思う以上の物が食膳に出てきておる。
だからね修行というものはね、心行というのは楽しいです。
 だから修行にならん事を私がちょっと考えたら神様がそげな修行にならない事、もうとにかく合掌して有難く頂きますという心あらねば食べたいと思う以上の食べたいものを神様は準備して下さるんだ用意して下さるんだという事を昨日頂いたんですけれども、やっぱりそれも心行なんです。ああしたい、こうしたい、これが食べたいと思うような事では心行にならないわけです。そういういろなら楽しい修行それとても、やはり心にいうなら行に火をつけるもの、やっぱり一心発起しなければ、いうならば自動車の運転を覚えようと思うならばなら運転技術だけを先ず身につけたら自動車運転はみやすうなってくるのです。
 教祖金光大神が教える後々の者はそういう修行をせんでも容易うおかげが受けられるといわれる。そのおかげは受けられるそのおかげもやはり力なしには受けられん。受け物なしには受けられん、その受け物を作る事の為の修行がね、求められるんだ、その受け物もそれこそ線香の火のような小さい火でもよいからさわれば熱いといったようなものがなからなきあいけない。漠然としたものでは信心の修行にはならん。それこそ「あつ」というそれこそ紙の裏表が突き通せるような信心が信心修行には求められるのです。
容易うおかげが受けられる。そこから本当に勿体ないようなおかげが容易う頂けるようになるのです。例えば私はまだ内容は聞かなかったんですけど合楽のまあ各支部とか分会なんか支部長さん格方達の集まりが先達ってからあったんでしようけれども、たとえば何々地区の支部長ども云われる人達はやはり元をとって道を開くのです。たとえばそこに綾部さんが居られますが、綾部さんが大分支部なら大分支部の長としてのいうなら長がやはり本を取って道を開くのですから、やっぱり支部長としての修行がなされねばいけんという事です。
 家ん中の信心の長といわれる人がです、やはりその信心を子にも孫にも容易う伝えていく事の為にはその長たる者がです、いうならばあられぬ行と信心のない者から見たら思われるだろうけれども行でもやっぱりさせてもらはねばならない。こげん朝早うおそからこん寒かつに参らんでんというような事でもです楽しゆう有難う出来る手立てを工夫しながらそういう修行にも取り組んでそれが熱情をもってするとそれが修行に火をつける事になる。修行が出ければ必ず力はつきもの、修行におかげはつきものでなく、修行に力が徳がつくのです。その力を持って徳をもって受け物をもって頂くおかげを頂く。そしていうならば容易うおかげが受けられるという事はこういう楽しい有難いもんだという事をわからなけりあならんと思うですね。
                どうぞ